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社長のコラム

奥山浩司(剛旭)社長コラム

by 宮西ナオ子 Presents

1997年のNHK教育「グルグルパックン」でペペロンチーノ王子役。1999年には後期のNHK連続テレビ小説『あすか』で菓子職人(藤吉徹次)役。その後、NHK大阪放送局や在阪民放制作のテレビドラマに出演しつつ、ラジオ番組、レポーター、テレビショッピング番組の司会、スーパー歌舞伎Ⅱ「ワンピース」に出演するなどさまざまな芸歴を持たれる井之上さんと奥山社長がロボットに出会うまでのお話を聞きました。




宮西: まずはチャルさん、俳優の道を選んだきっかけから教えてください。

井之上: 僕は中学や高校の時、何の夢もありませんでした。夢は「寝て見るもの」だと思っていましたが、たまたまバイトの先輩が劇団に入っていて、チケットを買うことになりました。演劇など興味はありませんでしたし、当時、18歳の若者が2500円というチケットを買うのは大きい出費です。
舞台は「ロミオとジュリエット」でしたが、それを見て「こんな世界があるのか」と大感動したのです。その時、僕もあちらの舞台に立ち、勇気や元気を届けたいと思いました。感動が冷めやらぬまま演劇を教えるというワークショップのチラシをみつけました。10回のレッスンで3万円でした。

奥山: それで俳優の世界に入ったのですね?

井之上: 人生は不思議ですね。あの舞台をみなかったら僕はこの世界に入っていなかった。役者になりたいなんて思ったこともなかったのに。舞台を見て、ワークショップを申し込んでから人生の歯車が大きく動きました。そこで知り合った人から、「立身出世劇団」を紹介され、オーディションを受けて入りました。すると、すぐにNHK教育番組の「グルグルパックン」のオーディションがあり、初めてのオーディションに向かったのですが、なんと受かってしまったんです。僕の唯一の自慢話です(笑)




宮西: デビューしたのは何歳の時ですか?

井之上: 20歳のときです。怖いもの知らずでした。それから番組を2年間させてもらいました。
その後、BSのドラマに大抜擢され、『活動寫眞の女』というドラマに出させていただきました。22歳くらいのときでした。それが初めてのドラマデビューです。その当時、上岡龍太郎さんが「上岡演劇祭」をされました。30団体くらいが候補にあがっていました。僕は同期とダブル主演で出演していましたが、「主演男優賞」の発表時、もちろん僕が選ばれると思っていました。それだけ自信があったのです。でも、なんと、同期が賞をとったんです。すごいショックでした。
当時の僕は、役者を通じて身近な人を幸せに、笑顔にしたいと思っていましたが、実際は周囲の人から大反対されていたんです。父親には、「おまえにできるはずはない」と言われていましたし母親からも親戚からも応援されていなかった。
ですから落ちた瞬間にこの言葉が僕を襲ってきました。「所詮、僕には無理だ。これは、いいきっかけだ。これであきらめが付いた」と断念しました。その翌日のことです。当時、バイトをしていたパチンコ店から「正社員にならないか?」というオファーをいただきました。そこで事務所を辞める電話をしようと思った時、逆に事務所から電話がかかってきたんです。「朝ドラの出演が決まった」というわけです。

奥山: 絶妙なタイミングですね。

井之上: 『あすか』という番組で竹内結子さんが主演でした。主人公と同期の若手菓子職人役として出演しました。ポスターにまで掲載されました。今まで朝ドラは4回出演していますが、これが一番大きな役でした。
実は、このように、挫折をして「もう辞めよう」と思って決心すると、また俳優に引き戻されるということが僕の人生で3回ありました。

宮西: 3回も? 聞かせてください!

井之上: この朝ドラに出演して世界が一変したんです。街を歩けば、知らない人から声をかけられ、舞台に出てもキャーキャーいわれる。天狗になっていたのですが、そんな僕を叱ってくれる先輩はいませんでした。あの頃の自分を振り返ると、とんでもなくいやな奴でした。24歳。絶頂期でした。あんなに反対していた両親も親戚も掌を返して、「やると思っていたよ」とにこにこしています。
家族に喜んでもらって嬉しかったですね。
24,25,26歳の頃は収入も多かったのですが、全部、自分で使っていました。ブランドものを買いあさり、後輩たちに奢りまくり、裸の王様でした。このような栄華は3年くらい続きましたが、26歳の時には、レギュラーが1本しかなくなっていたのです。

27歳の時に東京に行きました。そこからは地獄の始まりでした。演劇の聖地、下北沢に住んでいましたが、家賃や光熱費は高く、貯金は底をつき。バブルがはじけた頃で、バイトを探しても雇ってもらえません。なんとか大阪にあったレギュラーとたまに入る仕事で食いつないでいたのですが、どん底暮らしをしている中で30歳になってしまい、もうダメだと思いました。
借金も限度額までいってしまった。もう堅実の仕事に就くしかないと諦めたとき、大阪のプロデューサーからショッピング番組の司会のオファーが入ったのです。これが2回目の転機でした。
このレギュラー番組のおかげで借金も全部返すことができました。そこから30代は恵まれていました。
そして、ショッピングの司会を3年間続けた後、ABCラジオの平日生ワイド番組『武田和歌子のぴたっと。』シリーズの初代アシスタントを担当しました。お昼の3時から6時まで毎週月曜日から金曜日までのレギュラー番組でした。



宮西: 3回目の転機について教えてください。

井之上: レギュラー番組の時間以外も仕事があったのでさまざまな舞台に出たりしていましたが、
あるとき市川猿之助さんと出会うチャンスがあり、スーパー歌舞伎Ⅱ『ワンピース』への出演依頼を受けたのです。素晴らしいオファーに感動しましたが、出演するには6か月ほどラジオを休まなくてはなりません。プロデューサーに相談すると、一緒に喜んでくれて「ぜひとも出演したほうがいい」という許可を得たのです。舞台ではウソップの役をさせていただき、6か月が経過して、番組に戻ったのですが、時が経過し、プロデューサーが変わっており、7年間勤めた番組を卒業することになってしまったのです。40歳の時でした。

奥山: あのスーパー歌舞伎Ⅱ『ワンピース』に出演されていたんですね、しかし、その後は大変でしたね…。




井之上: 3年間くらい仕事がありませんでした。結婚していたので、主夫業をしていました。そのような時に娘が「リカちゃん人形がほしい」と泣いていたのです。買ってあげたかったのに、お金がなかった。その瞬間、僕は目の前がはじけました。「役者なんて、もう辞めよう。辞めて普通に働いて、リカちゃん人形を買ってあげる父親になろう!」。そう思って事務所に連絡をしたら、1件、オーディションがあるといわれたのです。


奥山: 仕事が入りましたか?


井之上: ケーブルテレビの仕事ということで、オーディションに行きましたが、これに受からなかったら辞める覚悟でいました。しかしオーディションに受かり、隔週でMCをすることになったのです。これで3回目もこの世界に戻ることができました。この仕事が決まったと同時に、ドラマ、司会、講師、演出などの仕事が決まりだしました。40歳から43歳くらいの3年間は厳しかったのですが、43歳くらいからまた活気が出てきました。



宮西: まさに天職ですね。使命というか……。それでは奥山社長お願いします。


奥山: 自分は子供のころからの夢がありました。とはいえ、そんな高尚なものではなく、漠然と「社長になりたい」という夢です。というのも伯父が工務店を経営していて、その伯父は羽振りがよく、親戚で集まるとステーキをご馳走してくれました。それに憧れ、社長になりたいとずっと思ってきました(笑)。
大学では、材料化学を学んでいましたが、絵を描くのが好きだったことから進路を変更し、機械設計職を確約してくれた小さな機械メーカーに入社し、8年間勤務しました。そこで機械設計職を務めながら様々な業務を学び、一人で起業しました。そして、ご縁があり、ケーブル製造装置を開発・販売することができ、ヒット商品にも恵まれ、ケーブル製造装置メーカーとして確立することができました。しかし、2008年のリーマンショックをきっかけに、産業用ロボットシステム開発・製作を手掛け、ケーブル装置メーカーだけでなく、産業用ロボットシステムインテグレータ企業も事業の柱とすることができました。その原点はガンダムです。チャルさんも『機動戦士ガンダム』の「ファーストガンダム」を知っていると思いますが、感動しませんでしたか? 自分は「ガンダム大地に立つ」を見てから非常に感動し、それが原動力となりました(笑)。
加えて、これから人手不足問題が大きくなると考え、自動化・ロボットが必要とされる時代となり、多くの皆さんに喜んでもらえると思ったことに依ります。そのような思いが、今に至っています。



コメント
井之上チャルさんの、役者を辞めようと覚悟すると、同時に素晴らしい仕事が入ってくるという奇跡。また奥山社長の自分の夢がどんどん具現化して実を結んでいくストーリー。お二人の歩んできた道はまさに「天職」「使命」に出会えたといえるのではないでしょうか? 次号ではお二人の出会いや現状の仕事についてご紹介します。

<井之上チャルさんプロフィール>(1975年9月19日生まれ )大阪府守口市出身。劇団「立身出世劇場」の元座員。本名(旧姓)は井上博之(いのうえ ひろゆき)。所属事務所はライターズカンパニー大阪薬業専門学校卒業。関西を拠点とした劇団「立身出世劇場」の看板俳優として舞台活動をしていた傍ら、テレビドラマや映画にも出演。
テレビ番組デビューは1997年のNHK教育「グルグルパックン」ペペロンチーノ王子役。1999年には後期のNHK連続テレビ小説『あすか』の菓子職人:藤吉徹次役で出演。その後、NHK大阪放送局や在阪民放制作のテレビドラマに脇役俳優として出演、またラジオ番組、レポーター、テレビショッピング番組の司会などもこなしている。また大阪にある舞夢プロでも演技を指導。
2009年2月には、自身と同世代の役者や作家とともに、劇団「テノヒラサイズ」を旗揚げ。
2010年4月5日から2016年12月30日まで、ABCラジオの平日生ワイド番組『武田和歌子のぴたっと。』シリーズの初代アシスタント担当。
俳優活動と並行しての出演だったことから、関西以外の地方での舞台公演やテレビドラマの収録が長期にわたる場合には休演期間を設けていた。