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社長のコラム

奥山浩司(剛旭)社長コラム

by 宮西ナオ子 Presents

現在、一般的にマスコミで報じられるニュースは暗いできごとやネガティブな内容のものが多く報道されがちです。それを払拭すべく独自の新聞を発行し、ポジティブで明るい記事を25年間も紹介してきたのが、竹原信夫編集長です。今回はロボットの可能性を追求する奥山社長と、竹原編集長の今までの経歴について語ってもらいました。



宮西: 竹原編集長、『日本一明るい経済新聞』を発行されたきっかけを教えてください。

竹原: 親父がもともと朝日新聞で働いていました。新聞記者ではなかったのですが、いつも朝ゆっくり会社に行くのを見て、朝が苦手な私は、「新聞社は楽やな」と思っていた(笑)。そこで関西大学の社会部マスコミ学科を卒業後はフジサンケグループ日本工業新聞(現:フジサンケイビジネスアイ)に入社しました。当時の関西には経済力があり、繊維や商社などの伊藤忠、丸紅、日商岩井、兼松などがあり、銀行も住友、三和、大和など多数ありました。住友金属、神戸製鋼、川崎重工など基幹産業もあり、ネタも豊富で、私の記事は全国版にどんどん掲載されていきました。ところがだんだん関西経済が落ち込むと、関西の大手企業が東京に移転したり合併したりして大阪本社がなくなっていったのです。大阪の地盤沈下と共に経済部記者の地位も低迷してきました。




竹原: 会社では浜松支局記者など経て、平成9年2月から12年10月末までは大阪経済部長をしていました。この時、中小企業を担当するようになり、その面白さを多くの人に伝えたいと思いました。そこで東京本社に新媒体の創刊を提案したのですが却下されたので、大阪支社で独自に中小企業をマーケットにした新聞を作り始めたのです。

宮西: それが、「明るい記事を紹介する」というコンセプトの新聞なんですね。

竹原: 長い間、新聞記者をしていて、日本のマスコミの出す記事は暗いと常々思っていました。今ならコロナ、いじめ、悲惨な事件や事故などネガティブな話を毎日のように流しています。暗い事件のことを深堀りしているのは、マスコミが特ダネ欲しさにしているわけです。実は私もそうでしたから……(笑)。しかし大きな影響力を持つ媒体が暗い話をしたら、周囲が暗くなるのは当然です。「日本には閉塞感が漂っている」とマスコミはいいますが、漂わしているのは、あなたたちでしょ? と感じていたので、自分で明るい経済新聞を作りたいと思っていたわけです。

奥山宮西: (拍手)素晴らしい!



竹原: 景気回復のためには経営者のマインドが何より問われます。今の日本のマスコミ、学者、評論家は暗く悲観的に言うのが「知的」だと思い込んでいるようですが、こんな時期だからこそ、明るい情報を発信して、経営者のマインドを明るくしたい。世の中のために貢献している人のことを紹介し、読んだ多くの人に「自信」「やる気」「明るさ」を発信する新聞にしたい、読んだら元気になるような「ビタミン新聞」を出したいと思って発行しつつ、もう25年が経過しました。

奥山: 一貫した考えで、突き抜けていらっしゃるのは、本当に凄いですね。



竹原: この新聞を続けていましたら、NHKテレビ『おはよう関西』の「元気中小企業コーナー」に出演することになりました。毎月1回出演していますが、以前、小渕恵三総理時代(第84代内閣総理大臣、1998年(平成10年)7月30日~1999年(平成11年)1月14日)、総理が電話をくださり、この新聞を褒めてくださいました。日本のマスコミでは暗い話が多い中で、明るい話を書いてくれてありがとうということで、お礼の手紙もいただきました。当時はまだ新聞社に勤務して、この新聞を作り2,3年が経過したときでした。
 その後、東京転勤になったのですが、それを辞退したので、会社を辞めることになりました。ちょうど21世紀になった時のことです。一時は退職とともにこの新聞を手放したのですが、会社には引き継いでくれる人がいなかったので、独立した私が引き受けることになりました。最初は、使用料を支払って産経新聞のマークをつけての継続でしたが、2,3年経過後、そのマークを辞めて、自分の作ったマークを入れるようになりました。

宮西: 独立してからはお一人で新聞を作っているわけですね。それも凄いですね!




宮西: それでは次に奥山社長、お願いします。

奥山: 自分は福井大学で材料化学を専攻していましたが、就活をしている間に、子供の頃から好きだった「絵」を描いて働ける仕事に就きたいと考えるようになり、同様に抱き続けていた社長になりたいという思いから、当時、教授より推薦していただいた紡績会社に「社長」という夢やビジョンを見い出せないことから、推薦を辞退し、絵を描いて働くことができる機械設計という職種を選び、小さな機械メーカーに入社。1から100までを学び、30歳で社長になろうと決心しました。
企業した当初は一人でスタートし、色んな「夢」を抱き、コツコツと構想を練っていました。そして、約2年後に、髪の毛より細いケーブルを撚る撚線機を開発し、自社ブランド商品を創ることができました。そして、無振動で回転、生産する「磁気軸受式撚線機」を具現化しました。



奥山: その後、ガンダム好きであった自分は、これからロボットの時代であると考え、2008年からロボットシステムの製作を開始しました。FA(ファクトリーオートメーション)の世界では、一般的にロボットは、大手カーメーカーや電機メーカーが導入し、使うものというイメージがあります。しかし、我々は、そのイメージを払拭し、中小企業や、あらゆる業界で使われるもので、人手不足問題や事業継承問題に必要不可欠であるということをお伝えし、導入促進に努めています。


竹原: 確かにロボットといったら、産業用ロボットが火花を散らして溶接しているというイメージですね(笑)。

奥山: 今、中小企業では人手不足問題が深刻化しています。それは、どんな業界、どんな職種でも同じ。そんな中、ロボットの導入を検討しようとしても、車ならディーラーがあるけれど、ロボットの場合は、どこに行って購入していいかわかりません。そこで、HCIで製作しており、購入することができることを多くの人に知ってもらうために、(一社)HCI-RT協会を設立し、経済産業省から委託事業として泉大津商工会議所に HCI ROBOT CENTER を開設、そして、このコラム対談を着手し、自分の想いである「地域や日本、世界を救いたい」そのような志の高い人達と対談をさせていただこうと思い、今まで多くの知人や友人と対談を続けています。

コメント
『日本一明るい経済新聞』を創刊した竹原編集長とロボットやAIに取り組んでいる奥山社長。強い意志をもち、新しいコンセプトで独自の世界を作り上げていくお二人の経歴は興味深いものでした。次回は、お二人の現在の仕事についてお話いただきたいと思います。お楽しみに。(第2話に続く)

<竹原信夫編集長さんプロフィール>有限会社産業情報化新聞社 代表取締役(ビジネスサクセスジャーナル『日本一明るい経済新聞』編集長)
昭和23年10月29日生まれ 大阪府出身
昭和46年3月 関西大学社会部マスコミ学科卒
昭和46年4月現フジサンケイビジネスアイ(フジサンケグループ日本工業新聞)入社。平成2年4月大阪経済部次長(デスク)
平成9年2月~平成12年10月末まで大阪経済部長、大阪で中小企業担当、浜松支局記者など経て大阪で繊維、鉄鋼、化学、財界、金融などを担当
平成13年1月独立、産業情報化新聞社代表。年間約500人の中小企業経営者に取材、月刊紙ビジネスサクセスジャーナル「日本一明るい経済新聞」を発行。
平成22年7月から吉本興業「吉本お笑い総合研究所」コンサルティング・フェロー、NHKテレビ「おはよう関西」元気中小企業コーナーに出演中。
竹原編集長の講演は、年間約500社の取材で見つけた元気な中小企業の経営手法、ユニークなビジネス、ちょっと変わったヒット商品など、足で稼いだナマの元気情報を展開。

『日本一明るい経済新聞』平成9年6月創刊、大阪市内を中心に約3万部発行元気な中小企業の経営ノウハウをはじめ産業界の話題の新製品、新技術、ビジネスモデルなど“明るい経済情報”を紹介。
年間購読5,800円(税・送料込) 問い合わせ(06-6445-7405)