対談
第18回:(株)HCI代表取締役社長 奥山浩司(剛旭) × (一社)日本ロボット工業会部会長 小平紀生
若き日のロボットとの出会い(第1話)
将来なりたい職業として「YouTuber」と答える若者が増えてきたとか。人気職業も時代と共に変化しますが、SIer(システムインテグレータ)という職業を知っていますか? 現段階ではなかなか知れ渡っていないようですが、大きな可能性を秘めた憧れの職業になる可能性も……。今回はロボット道40年のキャリアを誇る日本ロボット工業会システムエンジニアリング部会長、小平紀生さんをお迎えして、貴重なお話を伺いました。
宮西: お二人はロボットに造詣が深い方たちですが、最初にロボットに出会ったときのお話から教えてください。
小平: 私は今65歳。もうすぐ66歳ですが、最初にロボットの仕事をしたいと思ったのは中学生の時、14歳頃でした。テレビで放映されていた『鉄腕アトム』(フジテレビ系1963~1966)のリアルタイムのファンでした。その頃、自宅の2階で下宿していた東京工業大学の学生さんに勉強を教えてもらい、雑談中に機械工学科でロボットの研究が始まったらしいと聞きました。そして私も東工大に入学。ロボットの先駆者として著名な森政弘先生、梅谷陽二先生のお二人からご指導をいただきました。1975年当時は、「ロボット」という概念や機械はありましたが、まだビジネス分野では成立していなかった。就職にあたっては総合電機メーカの日立、東芝、三菱あたりにいれば、ゆくゆくはロボット事業に携われるかと思い、三菱電機に就職しました。「将来はロボットの開発がしたい」という希望を伝えたところ、一旦名古屋工場に配属され、1年後に兵庫県の研究所に異動しました。
宮西: 子供時代からの思いを着実に叶えていかれたわけですね。
小平: しかし当時はまだ産業用ロボットは研究開発項目にありませんでしたので、全く関係のない研究に着手しました。それから間もない1978年頃に、名古屋工場から溶接ロボットの開発依頼が来たことを知り、入社後3年程の新入社員の分際でまだ何もできませんでしたが、「やりたい」と自ら手をあげました。ここで大きなロボットを完成させたのが1980年でした。当時は教科書も何もない状態で、参考にしたのは米国の大学教授が書いた英語の文献と当時、後にロボット研究者として有名になられた東北大学の内山勝教授が、東大で書かれた博士論文。内山先生の論文には具体的な制御の方式について書かれていたので、それを参考にさせていただきました。結果、三菱電機で初めてロボットを動かしたチームの一人となりました。あとの3人の方は引退されてしまったり、残念なことに亡くなったりして、現在、残っているのは私だけです。
小平: なんとなくやりたいと思っていた中学時代からずっとロボット人生を貫き、ひとつのビジネスにおいて、研究所で初号機の開発に携わり、その後名古屋の工場に戻ってビジネスマネージャまで極められたのはメーカの技術屋としてはある意味で幸せだったと思います。おまけにロボット学会の会長までさせていただきましたからね。
でもビジネスとしてはすごく苦労しました。何もないところからのスタートでしたし、ロボットのビジネスは技術的なレベルが高く機械や電機などさまざまな要因が複合してきますから、技術屋がたくさん必要になります。製造も難しいし手間がかかる。機械製品と電気製品の両方を作れるようなインフラがなくてはならず、利益率も高くないので、決して儲かるとはいえませんから、サラリーマンとしては肩身が狭かった(笑)
奥山: 先駆者の方たちのご苦労がしのばれますね。
宮西: それでは今度は奥山社長とロボットの出会いについて教えてください。
奥山: 私もアニメーションから入りました。大きく2つのタイプがあって、ひとつは悪を倒す巨大ロボットアニメヒーローもの『マジンガーZ』で、世界征服を企む悪者から地球を守るロボット。
もうひとつは日常生活のSFヒーローもの『がんばれ!!ロボコン』で、日常生活の中から世のため人のために働き成長していくロボット。
それらが発展して巨大ロボットアニメヒーローは『機動戦士ガンダム』へ、日常生活のSFヒーローは『ドラえもん』へ……。
そのような流れの中で学生時代を過ごし、ロボットは切り離せない存在でした。
しかし就職にあたって、最初からロボットを目指したわけではありません。
大学で材料化学科を専攻してきたので、研究室の教授からは繊維を中心とした高機能製品を開発するある大手紡績会社を勧められました。
しかし、どうもそこは肌が合わず、しかも自分は昔から「いつかは社長になりたい」という思いが強くあったので、自分の人生をここで見直し、やっと出会ったのが機械設計者としての道でした。その後、8年間、小さな機械メーカで働かせていただきました。
小平: 奥山さんが就職したのはいつですか?
奥山: 1994年でした。バブル崩壊後ですね。
小平: ロボット受難の時期でもありましたね(笑)
奥山: 大変でした。新卒の求人数は少なくなり、教授に勧められた会社を断ったので、自ら合同企業説明会に行ってひたすら探しました。
材料化学科では数学や力学、材料力学、流体力学を学んでいたので、機構学や製図さえ勉強すれば、機械設計はできると考え、機械設計の職種に絞り、応募し、5社から内定をいただきました。
最終的に自分は社長になりたいと思っていたので、小さな機械メーカを選び、1から10まで学びたいと思いました。自動化、FA(ファクトリーオートメーション)を意識し、これからの時代はロボットだと思い、起業するときはロボットに関わる仕事で起業しようと思っていました。
小平: そして起業に至るわけですね。
奥山: しかし思いとは裏腹に、最初はすぐにロボットというわけにはいきませんでした。
ケーブルメーカとのご縁や、ケーブル・ワイヤー製造技術の知見より、ケーブル・ワイヤー製造装置メーカからスタートすることになりました。
以後、ケーブル・ワイヤー・チューブ・シート製造装置など多種多様な機械を手掛けてきましたが、2008年のリーマンショックのときに、受注が極端に落ちてしまった。仕事が減り、時間ができたことにより、元々ロボットをやりたかったという初心を思い出し、2009年からロボットシステムインテグレータ(以下:SIer)として、産業用ロボットを使った機械を始めました。
宮西: ピンチをチャンスに変えたわけですね。(第1話終了)
コメント
ロボット産業に入ったお二人。約20年の年齢の差がありながら子どもの時からロボットに多大な影響を受け、その憧れや夢を形にしてきました。時代の変化と共に、歩んできた道やロボットの開発環境は異なる時点での遭遇でしたが、いよいよその二人が出会うチャンスがやってきます。第2話をお楽しみに。(第2話に続く)
<小平紀生さんプロフィール>1952年(昭和27年)東京都大田区生まれ。1975年東京工業大学機械物理工学科卒業。同年三菱電機株式会社入社。1978年に尼崎市の研究所にて産業用ロボット初号機の開発に着手。14年間ロボットの研究開発に従事した後、1992年に名古屋の工場に異動しロボット事業の技術系管理職を歴任。2007年から本社にて主管技師長。2013年から主席技監。40年間にわたり産業用ロボット事業に奉職し、今なお継続中。社外活動として、現在は日本ロボット工業会システムエンジニアリング部会長、グローバルセーフティ推進機構理事など。日本ロボット学会では理事、副会長を経て2013年―2014年の2年間、第16代会長に就任。