新たな「夢」をカタチにする技術創造メーカー 株式会社HCI

社長のコラム

奥山剛旭社長コラム

by 宮西ナオ子 Presents

日本でも280人弱しかいない5つ星お米マイスターとして活躍している山下治男さんの前職は、神戸のお洒落なアンティークショップの店長でありバイヤー。その時に培った目利きのセンスをいかして展開するお米屋さん「RICE MEISTER SHOP YAMASHITA」はまるでお洒落なカフェの雰囲気。従来のお米屋さんのイメージを完全に覆していました。今回は奥山社長と山下さんのお店に伺い、まずはお二人にこれまでのヒストリーを語り合っていただきました。


奥山: 山下さんのお店のインテリア、素晴らしいですね。まるでコーヒーショップのようですね。

山下: たまにカフェと間違えて入ってこられるお客様がいらっしゃいます(笑)

宮西: 前職がアンティークショップの店長ということで、センスも光っていますが、そのご経歴から教えてください。

山下: 私は大阪出身ですが神戸の神戸学院大学に入学しました。そこで街のハイカラな雰囲気に魅了されたんですね。お茶が好きなこともあり、あるカフェに入ったときにフランス文化をモチーフにした雰囲気があまりに素晴らしかったので、「ここで働かせてください」とお願いしました。そこが前職の会社に入社するきっかけで、大学時代からアルバイトとしてそこで働いていました。
 私は経済学部出身ですが、大学在学中は経済の勉強ではなく、そのカフェのアルバイトに燃えていたのです。やがて就職活動をすることになりました。当初はアパレル業界に行きたいと思ったのですが、採用の壁は厳しく、就職ブルーになっていた時に、店のオーナーから今度骨董店を新たにオープンするので、その店の店長にならないかというオファーをいただいたのです。

宮西: すごい抜擢ですね




山下: 大学の担当教授は三木谷良一教授で楽天株式会社創業者、三木谷浩史さんのお父さんでした。厳しい方でしたが、めでたく大学も卒業し、アンティーク山下を構えて、卒業後すぐにフランスに買い付けのため足かけ3週間の旅に同行しました。もちろん荷物持ちでしたが、朝からコレクターのところを訪れ、取引するオーナーの姿に感動していました。彼は私より13歳年上ですが、仕事での薫陶を受け、お人柄の素晴らしさに敬服し心から尊敬していました。とはいえ職場環境は条件的に厳しかったし、逃げ出したいこともありました。
 でも今、ここで苦労しなかったらいつ苦労するのだと自分にいいきかせ、とにかく尊敬するオーナーに10年間はついていこうと思って頑張りました。そして10年が経過したときに、私で3代目になる実家の米屋に入りました。オーナーには無理をいって辞めさせてもらい不義理をしたと感じていたこともあり、この4月から東京の南青山に店舗をもつタイミングで、新しいステージに立つ前に、自分の過去とけじめをつけるために謝罪と挨拶をかねて先日、15年ぶりで彼の元を訪れ、涙の再会を果たしたところです。

奥山: それはめちゃくちゃ喜ばれたでしょう。それにしてもご縁とは不思議なものですね。




震災の時を刻む掛け時計は、山下社長の忘れない想いの表れ。

山下: 米屋の仕事を始めた頃、米に関する知識がないので精米機に米を入るような肉体労働をしていたのですが、等級や銘柄を学びつつ疑問に思うことがありました。もともと骨董屋の人間ですから数寄者つまり目利きを学んでいます。アンティーク屋は仕入れが命。どんな小さなものでも、そのものの持つ命を見抜きます。そしてモノを介して人と人をつなぐために自分の店にはコンセプトをもち、それに沿った商品をそろえてお客様にゆっくり見てもらうわけです。ところが米屋の仕事を始めた頃は5種類くらいの銘柄しか店に出ていなかった。実際は30種類くらいはあるのに、なぜほかの銘柄を出さないのかと不思議に思い父親に聞いてみると増量用のために使う硬い米は単体では売らないといわれました。それを聞いて骨董屋魂が腹を立てた。どんな米でも、それぞれの命をもっています。人間のエゴでよいとか劣るなどと決めつけるのが腑に落ちなかった。それは米に対して無礼ではないかと思いました。しかも米は毎年、その年の自然環境によって特性が違います。それを熟知してブレンドしたら、肉に合う米、魚に合う米などに分けることができる。肉も牛や豚によって異なるし、料理によっても異なる。そのような特性を生かせる米を選択しつつ、銘柄やブランドを増やしていったわけです。

奥山: そこでこのような豊富な商品が増えてきたというわけですね。




宮西: 次は奥山社長、今までのヒストリーをお願いします。

奥山: 自分はある機械メーカーに8年間在職していました。大学では材料化学を専攻していましたが、はっきりいって興味がなかった。就活をしている時、本当にこの道で一生、生きていくのかと考えた際に、幼稚園の時から絵が好きで、小学校の時には絵の教室に通わしていただき、今でも好きであることから、絵を描く仕事で職種を探すことにしました。まずは、建築士の仕事がありましたが、その場合には資格を得るために、もう一度大学に行かなければならなく、無理だと判断しました。しかし、機械設計ではそうではないことがわかり、大学の教授から勧められた会社を辞退し、自ら探した小さな機械メーカーに就職したわけです。そして、もう一つ決めていたことがあり、それは起業することでした。いつか社長になりたいと思っていました。それも子供の頃からで、工務店の経営をしていた伯父がとても羽振りがよく、大人になったらあのような境遇になりたいと思い「社長」に憧れていたのだと思います。(笑)




奥山: 社長になるためには小さな会社に入り、1から100まで学んで、30歳の時には起業をしようと考えていました。しかし、30歳になると、その会社の経営状態が悪く、最年少の課長としては辞められない状況でしたが、自分が設計した機械で会社に恩返しもできた頃に、おりしも会社側が希望退職を募ることとなり、今がチャンスと退職を決意したのが31歳でした。退職後、すぐに起業しました。
 「機械メーカーになる」ということ以外、何をするかも全く決めていませんでしたが、でも、なぜだかわからないが、自信だけは凄くあり、仕事が山のようにくるイメージでしたが、創業して3日間、全く電話は鳴らず、それで慌てて「これはアカン」営業をしなければと初めてわかりました(笑)。前職では営業もしていたので、苦も無く自然と営業活動に励みましたが、売れる商品もないので、最初は設計事務所的に仕事をいただきながら、黙々とオリジナル商品(機械)のことを考え、自分なりの準備を行っていましたね。

奥山: ケーブルメーカーにご縁があり、2003年に撚線機を開発しました。当時、流行していたガラケーの携帯電話に使う、髪の毛よりも細い25ミクロンのケーブルの需要が高い時で、開発した撚線機のおかげで、あっという間に忙しくなりました。
とはいえ、日本は少子高齢化により、これからは自動化が進み、ロボットが必要とされる時代になると考えていました。もともと子供の頃から、「がんばれロボコン」、「マジンガーZ」・・・そして「ガンダム」などロボットが大好きで、いつか作りたいという夢を持っていただけに「絶対にロボットをつくるぞ」と考えていましたが、ケーブル製造装置の需要が高まり、手掛けることができませんでした。しかし、リーマンショックで、ケーブル製造装置の需要が低くなり、色んな出会いや勉強の末、「ロボットで人を救うことができる」と確信を持ち、1年をかけて勉強し、2009年に最初のロボットシステムを製作しました。2008年のリーマンショックから始まり、1年でロボットの深みに入り、2009年には最初のロボットシステムを納入できたことが嬉しかった。

山下: すごいですね!




コメント
大阪はJR森ノ宮駅近くにある山下さんのお店はとても魅力的でした。お米の袋がコーヒーショップのように並んでいます。さすがアンティークショップで目利きの勉強を重ねてきただけにそのセンスにはプロの輝きが光ります。奥山社長との会話の中で、お互いに紆余曲折の中でも、現在の仕事にたどり着いた道筋は奇跡的な出会いや運命の展開によるものだということが一致しました。次回は現在のお二人の仕事の詳細をお聞きします。(第2話に続く)

<山下治男さんプロフィール/5ツ星お米マイスター>1976年生まれ、44歳。創業70年、山下食糧代表取締役社長(3代目)。大学卒業後、神戸で10年間、フランスアンティークのバイヤーとして、パリを中心にヨーロッパを飛び回る。「モノ」「コト」に対する目利きを養ってきたが、現在はお米マイスターとして活躍。すべてのお米の特徴がインプットされており、水や炊飯器の特徴と合わせてロジカルに「最高に美味しいごはん」を編み出す。大阪の本店では、約300種類以上のお米を常時ストック。選りすぐりの美味しいお米を絶妙のバランスでブレンドした「山ちゃんの極上米」は、単一種では決して出せない至極の味わいが楽しめるヒット商品。「マイベスト米探し」も。