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社長のコラム

奥山浩司(剛旭)社長コラム

by 宮西ナオ子 Presents

エンターテイナー、MR.Shinの店」として心斎橋本店、心斎橋パルコ店、さらに浪速区恵美須東に「新世界シアターバーMAGIC HOUR」を展開しているMr.Shinことシンさんは、ラジオ番組にも出演され多くのファンを魅了しています。シンさんとの対談は、笑いと感嘆、不思議世界の中で行われましたが、今日にいたるまでのシンさんの人生は順風満帆なものだけではなかったようです。魅力的なオーラを発する一方で、シンさんのこれまで辿ってこられた壮絶な人生の一部を垣間見させていただき、そこにも人気の秘密を感じました。


宮西: シンさんがマジシャンになったきっかけを教えてください。

シン: ♪時は昭和の~~よお♪(都都逸調に)

奥山宮西: (大笑)

シン: 話せば長くなるので、簡単にまとめますと……。(おもちゃをだしてまるTVで短くしゃべっているかのように(笑))、高校を中退して、調理師の見習いになりました。昔の修業は大変でした。朝からずっと洗い物をしながら師匠の技を習得します。今もオムレツなどなら上手に作れますよ。でも先輩と喧嘩して辞めました。その後、すぐに喫茶店を始めました。18歳のときですが、当時は痩せていて53キロくらいでした(笑)。住宅街の中でぽつんと、ジュークボックスを摂り入れた喫茶店をしていました。
 これが大当たりしてね~。 あの頃、ガロという歌手がいたのを知っていますか? 「学生街の喫茶店」という歌で「♪君とよくこの店にきたものだ~♪」という歌詞の歌が大ヒットしましたが、ジュークボックスがめちゃくちゃもうかったんです。100円入れたら3曲聴ける。こうして喫茶店を続けていましたが、20歳のときに、ものまねの番組に出てみようと思ったんです。




シン: 当時、とんねるずが出てくる頃かな。まだお笑いもないときでした。でも、人を笑わせるのは凄いなと思いまして、やってみたら受けました。歌も歌えたので、フランク永井を歌いました。オーディションに出るとき、レコードの針が飛んだような歌い方をしたのが大いに受けたんですね。(シンさんがやってみると、一同大笑い)

宮西: 同じところで何回も繰り返すわけですね。

シン: そうです。これが受け優勝すると、一気にテレビにひっぱりだこになり、三条シンという名前で今よりも有名になり、東京に行って芸能界で働きました。

奥山: へぇ、凄いですね~。

シン: 有名なコメディアンの欽ちゃん(萩本欽一さん)が5月7日生まれで、僕も同じ5月7日生まれ。当時は欽ちゃんのようになろうと思っていたし、僕も周りの人もそれを当然のことと思っていましたが、その道を断念してしまったんです。

奥山: えっ! どうしてですか?




シン: 恩師から「おまえ、青年実業家になりたくないのか? そんなところにいたら女と酒におぼれてすぐに死ぬぞ」といわれたんです。

奥山: おおお(笑)、そうなんですね。

シン: その方のおっしゃることは、もっともだったし、自分でも自分の性格を振りかえったときに納得がいった。そこで芸能の道を断念し、実業家を目指すことにして、「辞めます」といいました。
その時、当時のディレクターはじめ多くの人が「勿体無い!」と叫びましたよ。「思い直せ」って何度もいわれました。

奥山: 本当ですね。それだけの才能があって……。それにしてもすごいご決断でしたね。

シン: 芸能界を辞めた後、会社の社長をやり、宝石商をして一時は成功したのですが、いろいろなことがあり、40歳過ぎにすべてを失うことになったのです。そこで初心に帰り、物まねとマジックをしたかったので、本格的に学び直しました。



宮西: マジックはその時から学んだのですか?

シン: 実は20歳のころから少したしなんでいましたが、プロではなかったんです。45歳からマジックを取り入れた「ものまねマジシャン」を開始しました。すぐに酒屋さんにいって段ボールをもらい即席のテーブルを創り、心斎橋の路上でものまねマジックを行ったのです。
 当時は心斎橋でストリートパフォーマンスをする人が多くいましたが、私がマジックをすると通行人が私のところにたくさん集まってきて、投げ銭も予想以上にいただきました。「これで食べていける」と思ったものの、今度は人があまりに集まりすぎて警察に4回ほど連行され、やくざにも7回脅かされたりしたことがあります(笑)。
 そんな時にたまたまその場所を通ったのが、奈良健康ランドの社長の奥様で、その方に大抜擢され、そのご縁で、テレビに出るようになりました。また、十字屋カルチャーセンターのオーナーにもお声をかけられ、カルチャーセンターの講師にもなりました。30人くらいの生徒がいましたが、自分より上手な人がたくさんいましたよ(笑)。




奥山: それは、すごい流れですね。

シン: 様々なありがたい動きがありましたが、現実的には、それだけでは食べていけなかった。
 そこでどうしたらいいのだろうと思ったときに、店をもとうと思い心斎橋の今のこのビルの6階でオープンしたわけです。当時は無一文状態でしたが、縁のあった先生が僕のマジックに惚れてくださり、保証人になってくださったのです。本当に有難いことでした。
 しかも、なんと2か月したら店が一気に流行り始めました。さらに当時はセロというマジシャンがマスコミで騒がれ、大マジックブームになったこともあり、その波に乗って、店はどんどん流行っていったわけです。2007年、2008年の頃です。
 そのうちにラジオやテレビの話がくるようになり、波に乗ってきたわけで、最初に目指していた芸能の道に戻ってきた感じですね。40歳過ぎてからですが、夢をかなえられたわけです。

奥山: それは、20年越しのサクセスストーリーですね!




シン: もちろん自分は常に努力をしてきましたが、このような流れになったのも、すべて出会った方のお蔭様だと感謝しています。
 途中ではだまされたこともあり、会社もなくし、借金もして、家族を苦しめました。自分自身も死ぬんじゃないかと思ったこともありました。
 人を恨んだこともあり、リベンジしたいと思ったこともありましたが、ある時、わかったんです。
 恨んでも仕方がない。リベンジしてはダメだ。復讐したら自分に返ってくると……。「因果応報」という言葉がありますが、リベンジをしても、すべて自分に戻ってしまうということです。そこで 必要なのは人を許すことだと悟ったのです。恨んでも復讐しても仕方ないならば、許すほかない。そういう意識をもちはじめてから明らかに運気が変わってきたし、自分の良さがわかってきました。そして、今こうして人並みの生活もできるようになりました。             



宮西: ものまねはどのように学んだのですか?

シン: 毎日カセットテープを聞きました。しゃべって吹き込み、それを聴いていくうちに、どんどん上手になっていくのがわかります。そしてある日突然、麻生太郎やえなりかずきの物まねができるようになるわけです(笑)。
 聴き続けたあげく、ある日、脳が変わるのですね。もちろん子どもの時のほうが早いでしょうが、おっさんになっても聴き続けていたら結果が出ます。それは正にスピードラーニングの世界で、スピードラーニングが良いことがよくわかるし、色々な国の言葉もしゃべれるようになりました。(いろいろな国の言語で話す……大笑)       

宮西: わあ、素晴らしいですね。マジックなどのネタはご自身で考えるのでしょうか?

シン: そうです。全部、自分で考えます、今は紅白の玉入れを予言するマジックを考えています。構想はもう2年前からできています。多くの人にとって紅白の玉入れは小さいときの運動会の記憶として残っていると思うので親近感もあるかと思い、めちゃくちゃ盛り上がると思うんです(笑)。

コメント
底抜けに明るく楽しいシンさんですが、その経歴を聞くとかなり壮絶な時代もあったようです。今回の対談では、そのほんの一部の内容だったかもしれませんが、シンさんの苦労と努力、明るい生き方に感動しました。「人を許す」という悟りがシンさんの大きな人間性を感じさせます。さて、次回はいよいよシンさんと奥山社長のビジョンをお話いただきます。ご期待ください。(第3話に続く)